【史跡】福谷城跡(うきがいじょうあと/じょうせき)

更新日:2025年02月06日

NHK大河ドラマ「どうする家康」第39話、酒井忠次ゆかりの地として福谷城が紹介されました

NHK総合:大河ドラマ「どうする家康」紀行コーナー

第39回【太閤、くたばる】

放送日:2023年10月15日(日曜日)

放送時間:午後8時43分30秒頃(本編は午後8時放送開始)

福谷町内での収録の様子

木々の間に作られた福谷城階段の下から階段を撮影しているカメラマンとスタッフ2名の写真
福谷城階段下で撮影を行っている3人のスタッフの方を後方から写した写真
階段を上ったすぐ上の場所で開けた場所全体を撮影している3名のスタッフの方の写真
福谷城階段上の、周りが木々に囲まれた開けた場所を撮影している3名のスタッフの方の後ろ姿の写真
「史跡 福谷城跡」と書かれた案内板の奥で撮影をしている3人のスタッフの写真

【史跡】福谷城跡(うきがいじょうあと/じょうせき)

福谷城は、標高100メートル前後の丘陵の先端に位置しています。この時代の記録はほとんどありませんが、現在確認されているものは『東照軍鑑(とうしょうぐんかん)』の天文19年(1550年)に「原田右衛門太郎(はらだ・うえもんたろう)、福谷主(うきがいあるじ)」という記載と弘治2年(1556年)あるいは永禄2年(1559年)には酒井忠次(さかい・ただつぐ)、渡辺義綱(わたなべ・よしつな)ら今川・松平勢が守る福谷城に、柴田勝家(しばた・かついえ)ら織田勢が攻撃を加えたとの記載がある程度です。

福谷城は1郭と2郭を中心として、その周辺に複数の曲輪と堀が配置されています。1郭は35メートル×35メートルのほぼ正方形で、その東側には3郭や4郭があります。2郭は1郭とほほ同じ規模を持ち、西側には5郭が併設され、その南側には掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や隅櫓(すみやぐら)が配置されています。また、北・西・南側には長大な堀が設けられており1郭と2郭の北側には、それぞれ土塁が設けられています。

1郭は、明確な建物跡がないことから詰め城(つめしろ)であったと考えられ、2郭は掘立柱建物跡や焼き物が見付かっていることから、生活の場あったと考えられています。出土した遺物(いぶつ)には、中国産の青磁や白磁、瀬戸の大窯製品などの焼き物があり、年代は15世紀末から16世紀中頃を中心としています。

廃城時期は、はっきりとしていませんが、永禄5年(1562年)のいわゆる尾三同盟が契機とされ、遺物の年代からも16世紀後半と考えられます。

「史跡 福谷城跡」と書かれた案内板を手前に、福谷城跡全体を写した写真
ほぼ正方形をした福谷城1郭を上空から撮影した写真
周りは木々に囲まれている福谷城2郭を上空から撮影した写真
福谷城(入口)を示した地図
福谷城階段下に設置されている白字で「福谷城跡」と書かれた道案内板の写真
階段を上ったすぐ左横に設置されている案内板の写真

公開場所

福谷城跡I郭(いっかく)のみ【見学は無料ですが、下記の注意事項を必ずご覧ください】

  • 案内板及び看板があります。
  • その他の場所は、私有地のため立ち入らないでください。
  • 問い合わせは、みよし市立歴史民俗資料館(0561-34-5000)まで
  • 専用駐車場はありません。
  • 公共交通機関をご利用ください。

公共交通機関でお越しの場合

名鉄豊田線「三好ケ丘駅」下車(さんさんバス「4番:三好ケ丘駅」)

さんさんバス乗り換え、または徒歩(40分)

  • いいじゃんライン「16番:福谷区民会館」下車(徒歩7分)、「17番:福谷」下車(徒歩5分)
  • さつきライン「17番:福谷」下車(徒歩5分)

名鉄豊田線「黒笹駅」下車(さんさんバス「33番:黒笹駅」)

さんさんバス乗り換え、または徒歩(35分)

さつきライン「41番:寺田橋東」下車(徒歩8分)、「17番:福谷」下車(徒歩5分)

データ

所在地

愛知県みよし市福谷町市場(うきがいちょういちば)

最寄りの施設…福谷ハピネスホール(福谷区民会館、福谷行政区事務所)

時期

十五世紀末から十六世紀中

城主

酒井忠次(さかい・ただつぐ)、原田氏重(はらだ・うじしげ)

形式

館城(平山城)

遺構

曲輪(郭)、堀、土塁、遠構え

規模

東西およそ100メートル×南北およそ200メートル、比高20メートル

注意事項

  • 史跡(遺跡)を傷付けないでください。
  • 住宅地が近いため大声などの迷惑行為は控えてください。
  • ごみ等はお持ち帰りください。

市民活動団体が開催したイベント

2023年6月10日「ぶらりみよし再発見! 福谷城に息づく酒井忠次」【広報みよし取材】

解説(三好町誌「第3巻」より抜粋)

福谷城跡は、境川とその支流小石川に挟まれた舌状の丘陵地の先端に位置し、主郭とその周辺に複数の曲輪、櫓、堀、土塁などを配した平山城である。文献資料では、築城年代ははっきりしないが、戦国時代における「福谷」及び「福谷城」は『東照軍鑑』『家忠日記増補追加』『武徳編年集成』などにみられる。

いずれもこの福谷城をめぐり、弘治・永禄年間に守備する今川方の酒井忠次(注釈1)等と攻撃する織田方の柴田勝家(注釈2)との間に激しい攻防があり、今川方が防戦したことを伝える。また『参河国二葉松』には「浮谷村古城 原右衛門 酒井左衛門、此所昔合戦有」とされ、城主には酒井忠次の他に地元の土豪と考えられる原田右衛門太郎氏重の名が残る。

  • (注釈1)…徳川家康の譜代家臣で、天文18年(1549)竹千代即ち後の家康が今川義元の人質になったときも付き従っている。後に吉田城(現豊橋市)城主となって東三河武士の旗頭となり、慶長元年(1596)京都で没す。
  • (注釈2)…織田家臣団の中の猛将として知られ、信長没後、織田信雄と謀って豊臣秀吉と戦い、越前北の庄(現福井県福井市)で自刃している。福谷城へ攻め寄せたのは三十代半ば頃である。

…つづく

この記事に関するお問い合わせ先

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ファックス:0561-34-5150

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